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終戦73年に日本の戦争責任を考える(1)

 近代の日本の対外政策を学ぶことは、戦前・戦後のアジア・太平洋地域の戦争と平和を考えるうえで欠くことはできません。今、読んでいる『日本の戦争 歴史認識と戦争責任』(山田朗著/2017年)は、第一部第1章で「日露戦争とはどういう戦争だったのか」を論じており、そのなかでいくつかの興味深いことを気づかされます。978-4-406-06188-9L.jpg
 明治政府が、富国強兵政策をすすめ、欧米列強に追いつこうとしていた時代に大きな転機となったのが、日露戦争でした。年表を見れば、1889年2月;大日本帝国憲法公布、1890年10月;教育勅語、1894年8月~95年4月;日清戦争、1902年1月;日英同盟(第1次)調印、1904年2月~05年9月;日露戦争と流れていきます。当時、「日本の対外膨張の一番大きな動因は〈ロシア脅威論〉」であったということです。ロシアだけではなく多くの欧米列強がアジアの植民地政策を進めていた中で、こうした明治政府の政策の判断材料はイギリスからの情報であったこと、イギリスがアジアでの権益を確保するために日本を利用したということが書かれています。明治政府は(「明治政府」と私が呼ぶのは主権は国民になく天皇にあったから)北東アジアの植民地政策を進めるために、1906年2月に韓国統監府設置、同年11月に南満州鉄道株式会社設立、1910年8月に韓国併合へと動きます。
 日露戦争の詳細(失敗と成功)は省きますが、「日露戦争とはどういう戦争だったのか」の結びには、次のように書かれています。日露戦争は失敗の連続でしたが、「その失敗面はほとんど例外なく隠され、『失敗ではなかった』と言いかえられた。例えば、弾がなくて困った話は、『弾がなくても戦えた』という話にすり替えられてしまう」ということ。失敗を隠蔽して美談に変えてしまうことの極みは、「軍神・○○中佐」というように、亡くなった人を軍神に祭り上げ、本来批判されるべき幹部の責任を免罪してしまうことです。
 このように、明治から昭和にいたる天皇政府は、大本営発表や靖国神社合祀(英霊を讃える)によって、無謀で残酷な侵略戦争に国民を総動員していったのです。
 戦後日本は、日本国憲法により戦争を放棄し、国民主権と基本的人権の尊重を確立し、国民の不断の努力でこれを守ることを誓いました。明治から昭和の天皇政府の時代の過ちを二度と繰り返してはいけないと強く思います。

タグ:戦争責任
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