SSブログ

『無言館』への旅

 6月19日(日)、千葉県庁近くの「プラザ菜の花」で九条の会・千葉医療者の会結成3周年のつどいに参加して、信濃デッサン館及び無言館の館主で作家の窪島誠一郎さんの講演を聞きました。 窪島さんは『無言館』をつくるにいたった経緯、戦没画学生とその作品への思いについて、じっくりと語られました。dc061910.JPG
 とても感銘を受けるお話しでしたが、私自身は、初めてお名前を聞く画家や作品のことがほとんどでしたので、どのように紹介すればいいか、悩んでいるうちに1週間が経ってしまいました。それで、少し本をひもときながら紹介することにします。
 窪島さんは、はじめに、32年前(1979年)に「信濃デッサン館」をつくるきっかけとなった、村山槐多(かいた)とその作品の魅力について話されました。村山槐多は1896年生れ。信州を愛した画家で、情熱的な絵画と小説や詩もかいています。代表作の一つ「バラと少女」は、東京、国立近代美術館に飾られています。19歳で肺結核にかかり、22歳で他界しますが、「いのり」という詩を残しています。「神よ いましばらく私を生かしておいてください … 生きて居れば空が見られ 木がみられ 画が描ける あすもあの写生がつづけられる」と。絵を描くことが生きることそのものであった夭逝(ようせい)の画家・村山槐多に窪島さんは惹かれました。槐多との出会いが「信濃デッサン館」を開く動機となりました。その当時の窪島さんの心の動きについては、太田政男さんのインタビュー集『教育について』(旬報社、1998年)所収の「無言の絵はいのちを語る」に書かれています。
 そして、戦没画学生の作品を集めた「無言館」をつくるきっかけになったのは、槐多が亡くなった2月20日に催す「槐多忌」に、画家の野見山暁治(ぎょうじ)さんを招き、野見山さんが編纂に携わった『祈りの画集』(共著、日本放送出版協会、1977年)について話しをされたことでした。野見山さんは、1938年に東京美術学校に入り、43年に出征しますが病気で帰国。多くの友人を戦争で失いました。『祈りの画集』は、NHKの番組で戦没画学生の遺した絵とご家族を訪ねたのをまとめて紹介された画集です。野見山さんは窪島さんに、「当時は予算の関係で行けなかったところがまだまだある。あの頃でさえ相当傷んでいた絵がいまどうなっているか心配だ」と話されたそうです。それから、窪島さんは何かに突き動かされたように、最初は反対された野見山さんを説得して二人三脚で全国を回り、戦没画学生の作品を集め、1997年に戦没画学生慰霊美術館「無言館」をつくったのでした。
 窪島さんは、「無言館」に展示されている作品の中から、恋人の「裸婦」を描いた日高安典さん、子を宿した妻「霜子」を描いた中村萬平さん、一家団欒の「家族」を描いた伊沢洋さん、妻・静子さんを描き遺した佐久間修さんの作品とそこに込められた思いを語りました。いずれも『無言館 戦没画学生「祈りの絵」』(窪島誠一郎著、講談社、1997年)で見ることができます。
 講演では、もっとたくさんの心に残るお話しがありましたが、これで終わらせてもらいます。私の中では、「無言館」に飾られている作品と空気を直に感じてみたいという思いが強くなりました。DSC01210.JPG
nice!(55)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 55

コメント 0

コメントの受付は締め切りました

トラックバック 0