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宮森小学校ジェット機墜落事件を風化させない…

 日本子どもを守る会編集の『子どものしあわせ』7月号は、特集「子どもの未来に基地を残さない」で、宮森小学校を襲った表題の事件を取り上げています。
 まだ私が生まれる前の出来事ですが、51年前(1959年)の6月30日、嘉手納基地から飛び立った米軍F100Dジェット戦闘機が、旧石川市=現うるま市の宮森小学校に墜落して、小学校の児童11人と近くの住人6人が亡くなりました。怪我をした人は、小学校の児童が156人、教師・学校の近くの人が40人、壊された家が35棟、壊された教室2棟・5教室という大惨事となりました。
 この悲惨な事件を風化させないとお話をされたのが、当時、宮森小学校2年生だった平良嘉男さん(うるま市宮森小学校校長)です。「私は給食の時間が始まっていたのですが、なぜか、中庭で遊んでいました。気づいて教室に駆け込みました。すでに机の上にコップがおかれていてミルクが注がれていました。そのミルクを口に運ぼうとした、その瞬間に大音響が落ちてきたのです。…戦争であれば、何かあるとお互いに対話するなど予測ができますが、これは予測ができませんでした。ですから、先生方もパニックです。何が起こったかが分からないわけです。高学年の先輩でした『戦争だ』と叫び、みんな2階からとび降りたのです。…教壇の先生を見ると、パニックでした。窓に目を向けると、窓ガラスが真っ赤に染まっていました。…そのうちに、天井から火の粉が落ちてきたのです。…教室から出た最初に私が目にしたのが、真っ黒の死体でした。血まみれになった仲間がヘリコプターで運ばれて行きました。…今でもその時の映像は私の脳裏に残っています。実は私も44年間、この事件のことを片言も語ったことがありませんでした。」
 いまなお沖縄県民は、米軍基地があることによって精神的、肉体的な苦痛を被っています。米兵による事件・事故も後を絶ちません。本土ではあまり知られていない沖縄の戦後史を、私たちはしっかりと学ばなくてはいけないと思いました。
 この事件でなくなられた子どもたちの苦しみと無念を忘れません。心から追悼いたします

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